新潟市在住の本井晴信による絵葉書コレクションで、その数は必ずしも多くはないが、新潟市内に関連するものを中心にしたものとなっている。今回は、1900年代から1940年代にかけてのものを収録した。
新潟市中央区西大畑町にある老舗料亭の行形亭は、1750年頃、海岸ばたであった現在の場所に料理屋を始め、三代目から行形亭となり松次良を名のる。動画の撮り手は四代松次良(芳郎:1910~1997)である。芳郎は1928年に新潟商業を卒業すると、東京築地の料亭新喜楽に修業にで、在東京時代から16mmフィルムで動画を撮り始める。新潟に戻ってからは、行形亭を舞台に、行形亭で働く人びとだけでなく、出入りする芸妓たち、あるいは職人などを、カラー映像を含む、貴重な記録を残している。
市山流は、歌舞伎役者・振付師の市山七十郎が、江戸中期に大阪で創始した日本舞踊の流派である。江戸後期より新潟を拠点に移し、七代目市山七十世が家元を務める現在まで、新潟の文化と古町芸妓の芸を支え続けてきた。その芸は新潟市無形文化財にも指定されている。1930年代、市山流の撮影を主に担当した和田写真館による写真には、演じ、踊ることに没頭する子どもたちの姿が映し出されている。また、関東大震災の写真は、絵葉書の原型となるプリントを貼付した写真帖からのものである。なお、市山流の毎年の研踊会の動画(8mm/ビデオ)の記録が数多く残されており、デジタル化が緊急に求められている。
今成家は、六日町で指導者的立場にある裕福な地主であった。今成家に残された幕末から明治の最初の頃の湿板写真は、十九代目当主の無事平(1836〜1881)が、幕末に江戸の大鐘立敬より技法を学び、弟の新吾らと六日町で撮影したものと考えられ、写真館によらない一般の人びとによる写真として全国的にも極めて貴重な記録となっている。また、プリントの写真は、戦前の昭和期に、開拓事業や青壮年組織活動に力を入れていた今成家拓三(1912〜1980)を中心に、六日町の若者たち自ら上演した芝居の記録写真である。ここに掲載した写真の多くは、1942年の上演を撮影したものと考えられる。
梅沢家は、塩沢町大沢で1875年より1839年頃まで池田屋という屋号で酒造業を営んでいた家である。幕末には塩沢組総代庄屋、大沢村戸長を務め、その後も益吉(1877〜1946)が石打村会議員、石打村長(1936)を務めるなど活躍した。明治後期から昭和初頭にかけて撮影された梅沢家の乾板写真は、益吉とその父、熊太郎らによって残されたものと考えられる。梅沢家の写真には、バイオリンや蓄音機に囲まれて華やかな暮らしを送る家族の姿とともに、酒造業に携わる職人たちの、自信に満ちた表情がとらえられている。
大場隆太郎(1888~1941)は、新潟市中央区上大川前通在住した資産家である。大場家は石油などで財をなし、さまざまな会社に関わったとされる。あまり写されることのない、本町通りや埠頭などが写されるのは、住んでいた場所と仕事とが映像と深く関係していたことを示唆している。戦前の小型映画であるが、8mmフィルムによる撮影である。
この音源は、新潟県小国町を2010年から14年にかけて、橋谷英子が人文学部の授業の一環として、各年、留学生を交えた学生約20名と共に訪問した時の録音である。豪雪地帯小国の自然と人々の暮し、暮しの中で語りつがれた昔話、語り手たちが経験した戦時下の暮しが語られる。語り手は、高橋実(1940-)、山崎正治(1925-2013)、鈴木百合子(1931-)、五十嵐サチ(1931-2016)佐藤マサナ(1929-)の5名の方がたである。
現在、小千谷市総合体育館で所蔵している旧小千谷市視聴覚ライブラリーの映像をデジタル化したものである。
片桐徳重(1901~1946)は、浦佐の地主の息子であったが、進学を許されず、1930年頃、自由大学で出会った写真仲間の妹と一緒になり満洲大連へと出奔する。大連で満洲宣伝会社を起こし、看板や広告アドバルーンなどの製作をして活躍した。しかし、敗戦後の1946年11月に、軍属としてシベリヤに抑留されて死去する。カメラに向かってポーズを撮る子供や、動きのなかで笑顔を見せる若者たち、農作業にいそしむ村の人びとは、片桐の撮影をともに楽しんでいるようである。
片桐恒平は1937年南魚沼市六日町に生まれ、長岡市へ転居後、1974年より山古志の村々だけを写真で撮り始める。1992年、山古志村池谷地区にギャラリー・フォトルーム片桐を開設するが、新潟県中越地震により全壊する。片桐恒平の写真は、民俗学的な観点を含みつつ、村の人びととその生活を外側からではなく、長い信頼関係をもとに村の内側から、普段の何気ない人びとの姿を写し撮っている。現在も、撮影は更新中で、全体で約6万コマとなることが予想されるが、今回は、その最初の頃の、約1万3000点をあげている。
金井茂(1921-1964)医師。新潟県三条市に生まれた金井は、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み医師となった。高等学校時代から趣味として写真を始め、旧制新潟高等学校の寮生活と勉学生活を収めた写真をまとめたアルバムを残している。本コレクションは、このアルバムの写真をアーカイビングし公開したものである。
加茂市のコレクションは2つに分かれる。1つは『加茂三社祭典』で、1919(大正8)年5月22日に又新館活版所の店主中林甚七が東京シネマ商会に撮影させ、加茂青海神社に寄進したもので、新潟県で最も古くに製作された映画と考えられる。2つ目は、加茂市民俗資料館に収蔵されていた動画8mmフィルムで、加茂市8mmクラブによって制作されたものが中心となっている。
旧山古志村民俗資料館は民俗学者宮本常一の助言・指導を受け、1976(昭和51)年に山古志村大字南平の廃校となった池谷小学校の校舎を利用した展示収蔵施設として開館した。しかし、2004(平成16)年10月23日に起きた中越地震で被災し、収蔵されていた民俗資料約3,500~5,000点は、現在、長岡市山古志虫亀の旧虫亀小学校(現長岡市山古志公民館虫亀分館)に保管されることになった。なお、この民俗資料の整理作業は新潟大学、長岡市山古志支所、長岡市立科学博物館の連携のもと行われ、2016(平成28)年3月に『旧山古志村民俗資料館所蔵 民俗資料目録』が刊行された。本データもこの目録を元にしたものである。
栗林羊一は1905年生まれ、栗林家は新潟市内の古町4番町、日活の映画館前に住まいがあり、祖父重三郎は米穀商を、父文蔵は新潟商船倉庫を営む家であった。羊一は、1924年に慶応大学に進んだ後、新潟貯蓄銀行などに勤めた。しかし、一方で、写真、映画をよくし、また、ハーモニカ、シロホン(木琴)を演奏し、NHK新潟のラジオ放送などにも出演していた。体が病弱なこともあり、二児を残し、1937年に夭折した。
齋藤勲は大正15年1月30日山梨に生まれる。1947(昭和22)年5月荘内自由新聞社(現庄内新聞社)に入社、新聞記者となる。1950(昭和25)年5月より新潟日報社に入社。1958(昭和33)年4月より昭和36年7月まで小出支局長となる。その後、高田支社など県内各地勤務を経て本社勤務に。1980(昭和55)年4月より論説委員となるが、1980(昭和55)年12月7日、病気により死去。本データベースには、小出支局時代及び特派員として取材した写真、ならびに記事が遺族より提供されたものである。
齋藤家の初代喜十郎が、現在の新潟市中央区東堀通七番町で、三国屋として、商売を始めたのは文化文政の頃とされる。明治の近代化のなかで、1896(明治29)年には新潟硫酸、翌1897年には新潟商業銀行を創設するなど、銀行業や化学工業、さらには汽船業などへと事業を展開し、産業資本家へと成長する。四代喜十郎は五代伊藤文吉の娘良久と一緒になり、五代喜十郎(幼名・庫四郎 1863~1950)も五代伊藤文吉の娘八代重と一緒になっており、齊藤家と伊藤家は近しい親戚関係になっており、絵葉書のやりとりも八代重が中心である。また、動画は、六代喜十郎(幼名・庫太郎 1915~83)と、その姉妹である愛子、和子の三人によるものと推定される。
新発田市図書館に所蔵されていた動画2本をデジタル化した。特に『新築記念 新発田図書会館 竣工式実況』は1938年12月に新発田市立図書館の竣工式を記録したものだが、35mmオリジナル・フィルムが劣化しているため、8分53秒から16mm複製版を用い、SPによって録音された音源を付け加えて、再現を行った。
菅原収佑(1937-1977)カメラマン。新潟県三条市に生まれた菅原は、上京後、写真学校在校中より新潟県内の三条市や佐渡の人びとを撮影し、記録に残した。その後日本テレビ系列の会社に就職し、カメラマンとして1960年代の初期テレビ局の放送現場の記録写真を撮った。本コレクションでは、菅原の多彩な仕事のうち、新潟関係の写真を公開している。
鈴木貞吉(1916-2002)医師。新潟市に生まれた鈴木は、新潟夜間中学校(現在の新潟明訓高校)に入学後、専門学校入学者検定(専検)に合格して1934年4月に旧制新潟高等学校に入学、さらに1937年3月に新潟医科大学に入学した。1941年の卒業後は仙台陸軍宮城野分院で見習士官として勤務し、同年12月出征し満洲にわたり1943年に帰国した。戦後1947年からは新潟市内で医院を開業した。本コレクションは、鈴木が旧制新潟高等学校に入学する前後から満洲に滞在していた時期の写真をまとめたアルバムの写真をアーカイビングし公開したものである。
関川村土沢小学校の映像は、オープン型ビデオによるもので、1970年代、全国の視聴覚教育の一環として、特に中山間地域を中心に設置されたビデオカメラによる撮影である。小中学校における教育の一端を知る貴重な資料といえる。
加茂駅前にて写真屋を経営していた。1957(昭和32)年頃よりW8の8mmフィルムで撮影をはじめ、1970(昭和45)年頃よりシングル8フィルムを使うようになった。1985年頃まで、加茂市を中心に約140本の動画を撮影した。継続的な動画の記録として貴重である。
高橋捨松(1863~1930)は、六日町を代表する地主として酒造、金融業など幅広く事業を展開し、地域経済の旗振り役として活躍した。高橋家の裏は船着き場であり、高橋は舟による運輸業にも深く関わっていた。家業と深く関わる魚野川を背景に、家族だけでなく、家に出入りする使用人、村の人々、さらには六日町にやってきた放浪の芸人と、家と地域に関わる様々な立場の人々に対して、高橋の目は向けられている。
たむたむ新潟映像ギャラリー準備会により発掘された動画を、地域映像アーカイブ研究センターにて、デジタル化したものである。
角田勝之助が生まれたのは、1928(昭和3)年、奥会津(奥只見)、新潟県と福島県の県境の金山町玉梨村である。川口国民学校を卒業した1943(昭和18)年頃に写真に興味を持ち始め、敗戦後の1951年頃、カメラを入手し撮影を始まる。角田家に所蔵されているネガは自身の撮影のみならず、その仲間たちによって写されたものも含んでいる。また、1960年代に入ると、8mmフィルム、1980年年代にはいるとビデオなどによって動画撮影も行っている。現在に至るまで60年以上におよぶ、村に住む人びとによる、自らの映像記録として、全国的にも貴重なものである。全体で約6万コマとなることが予想されるが、今回は、その最初の頃の、800点をあげている。
中俣正義(1918~1985)は六日町の欠之上に生まれ、県立長岡中学校を卒業後、1939年理研工業宮内工場に勤務、翌1940年4月に応召され、新発田第16聯隊に配属された。ベトナム・ホーチミン市駐留中に終戦を迎え、1946年5月帰新。1950年4月から正式に新潟県観光課に勤務して以降、生まれ故郷の村々をはじめ、新潟県内各地で写真と映画を撮影し続けた。中俣は、県を対外的にアピールする観光課の仕事と、民俗学的な考えを組み合わせて、村の生活や文化を映像にして甦らせようとした。写真は約10万コマとなることが予想されるが、今回は、約1万8000点をあげている。
1945年9月、アメリカ軍が新潟市に進駐し、師団司令部(新潟軍政部)を設置した。その後、占領政策の一環として、1948年には新潟CIE図書館が設置され、占領の終結とともに1953年に新潟アメリカ文化センターに改称された。1971年に閉鎖となったが、その際に所蔵して図書、ならびにVOAテープ、USIS映画などが、新潟大学の各部局に寄贈され、最終的に附属図書館に収蔵されることになった。
なお、VOAテープのデジタル化にあたっては、「占領~ポスト占領期のアメリカ広報宣伝/メディア政策-映像とラジオを中心に」(研究代表者:土屋由香 科研基板研究(B)21310163)の助成を得て行った。
現在、県立生涯学習推進センターに所蔵されている視聴覚資料の中心は、新潟県視聴覚ライブラリーの所蔵資料である。1948年文部次官通達発社103号によって新潟県視聴覚ライブラリーは設立され、以後、視聴覚ライブラリーの先進県として活躍してきた。なお、県立文書館にはライブラリーの中心を担った佐藤嘉一の膨大な新潟県視聴覚教育関係資料が所蔵されている。なお、現在、県立生涯学習推進センターには中俣正義が撮影、制作した県観光課の映像を含め、新潟県庁によって製作された映像も収蔵されている。
新潟市視聴覚ライブラリーは、1951年地区ライブラリーの1つとして設置された。視聴覚資料の貸し出しだけでなく、小中学校で使う教材として、自作教材製作を推進し、動画、スライドなどを数多く製作した。今回、スライドはデジタル化し、残された説明台本をもとにナレーションを吹き込み、復元を行った。現在資料は、新潟市文化観光・スポーツ部歴史文化課に移管されている。
平賀洗一(1902~1980)は六日町に生まれ、仙台の第二高等学校に進学、二高時代には社会主義研究会に所属し、1922年には日本の三大小作争議のひとつである木崎争議の応援に参加している。また、東北帝大医学部に卒業間際の1928年3月15日の共産党一斉検挙の時に、無産者新聞を配布したことで逮捕されている。東北帝国大学医学部を卒業後、1931年に六日町に戻り平賀医院を開業した。平賀は社会主義運動の取り締まりが厳しくなって以降、映画撮影にのめり込んだ。『ながれ』をはじめとする女性美を追求した3部作は、西欧の美意識を反映しつつ、自らのユートピアへの夢を語っているようである。
新潟市江南区沢海の伊藤家は、明治に入り、地租改正による土地制度や租税制度の改革の大きな過程のなかで巨大化し、1901年には1,000町歩を超える巨大大地主となる。戦後、伊藤家の屋敷と資料は、北方文化博物館として残されることになった。今回データ化されている絵葉書と動画は、六代目文吉とその妻真砂夫妻とその子供らによるものと、六代目文吉が1903年、33歳で亡くなったため、その後見人となった六代目の兄弟であった九郎太によるものである。絵葉書によるやりとりからは、地主である伊藤家の様子がうかがえるだけでなく、絵葉書の最初のブームである1905~1913年頃の世間の様相もみえてくる。
南魚沼市にある貴重な映像のうち、今回は、浦佐毘沙門堂の裸押合などの祭礼を、1960年代に撮影した関久良の8mmフィルムのものと、南魚沼市教育委員会による2013年の裸押合の記録を収録した。なお、『越後浦佐の毘沙門堂の裸押合-雪と炎の祭-』は詳細な記録である[記録編]と、調査報告書が刊行されている。
また、南魚沼での酒造りの記録として八海醸造によって継続的に制作されている『魚沼の酒造り』の第1作と最近作を収録した。20年の間の時代の変化を読み取ることができるだろう。
山内写真館は、1908(明治41)年頃、本町2丁目にて店舗が初代店主山内正治(1886~1955)によって創設され、2代目店主は山内与喜男(1920~2000)、3代目店主は山内景行(1951~)と引き継がれた。しかし、2004年の新潟県中越地震を経て、2009年閉館となった。現在、山内写真館の映像は、十日町情報館に寄託され保存されている。残された約5万点の映像の中で最も多いのは2代目店主山内与喜男のもので、1950年代から1970年代にかけてで、十日町市が活況を呈していた時代の貴重な記録となっている。今回は、動画のみを収録した。8mmフィルムは2代目店主山内与喜男と、3代目店主・山内景行による撮影である。
ジェームズ・F・イングリッシュ(James F. English)は、高校卒業後、優秀であったため日本語の教育を受け、対敵諜報部隊(CIC)に配属された。1946年1月頃、東京に到着し、約1ヶ月の訓練の後、1946年の1月から10月頃にかけて、約1年間、第441対敵諜報支隊の第30地区(新潟)の高田支所に配属された。写真はその時のもので、日本に魅了され、自身でも初めてカメラを購入し、撮影したものだった。帰国後は、イェール大学を卒業し、銀行、あるいは大学での教育などに携わった。
石山与五栄門 (1923-1997) 写真家・郷土研究者。旧巻町(現新潟市西蒲区)に生まれ、公民館職員となり、のちに巻町郷土資料館長を務め、変貌する西蒲原地方の生活、文化、自然を資料として残す仕事に情熱をもってとりくんだ。その成果は、地域に残された資料を発掘・保存・編纂し、巻町双書40集としてまとめられた。また、10 代から写真を撮り始めた彼は、地域文化のさまざまな姿を撮影し、多角的に記録することにも没頭した。写真家としての才能に恵まれた石山の写真は、記録資料であることを越えて、生き生きと時代の空気や自然の表情を伝えるものになっている。
塩沢小学校は2019年に創立130周年を迎えた。本コレクションは、塩沢小学校に残されたもので、SS-M-001-001の冒頭「贈8ミリ撮影機 昭和32年度 卒業生一同」とあることから、1956年頃に8mmフィルムのカメラと映写機が同校で購入されたと考えられる。映像は視聴覚教育の一環として、1960年頃まで学校の行事を中心に積極的撮影された。
十日町市博物館に収蔵されていた映画を中心にコレクションとしてまとめた。コレクションは十日町市による制作だけでなく、十日町市中里村、水沢村などの公民館で制作された映像、さらには上越市の岡澤同志会制作した映像なども含む。
間瀬屋(まぜや)は、江戸時代、北前船の廻船問屋を営んだが、明治になり廻船問屋の株仲間廃止によって新規参入が増えたこともあり、廻船問屋を廃して船具商となった。北洋漁業への進出は、1890(明治20)年代頃からで、大正時代には北洋漁業者として新潟を代表する会社の1つとなった。間瀬屋当主9代鈴木佐平(貫一郎)は写真、絵画、和歌を趣味としたため、間瀬屋には多くの写真が残されることになった。戦後は、ビルサービス業へと転じた。地元経済と密着した間瀬屋のあり方は、地域経済と文化の密接な関係を示すものとなっている。
芳賀彊は両津水産高校の教員として映像の制作と指導にあたった。両津水産高校は佐渡市梅津(両津地区)に1946年に開校し、1957年に漁業科、1958年に水産製造科を設置し、1963年に住吉に水産校舎を建築した。芳賀の映像の大半は、漁業科、ならびに水産製造科のようすを写したものである。なお、同校は2013年には閉校した。